FLYING ELEPHANT COMPANY/飛象社

無事終了。自分でも満足の行く舞台をつくる事ができたと思う。
現場で出来上がっていくに従って"不要なもの""蛇足なもの""過装飾なもの"をカットしていく作業はある種爽快であった。
「過ぎたるは及ばざるが如し」とはよく言ったもので、必要なものは存在し、それ以上のものは排除する。「単純とは違う意味でのシンプルさ」これが今回の舞台の僕と小早川との共通認識であった。主題となるものが確固として存在し、それを装飾が取り巻く。つまり、主張するものは複数は必要ない。これが僕の言うシンプルさだ。
少し倒錯するようではあるが、今回の主題は「それ単体では決して主張しない空間」であった。そこに人物が存在することにより、荒野であり、城内であり、中庭であり、森である場所。しかし人物不在ではどことも言わずに存在できる空間。そういう雰囲気をつくり上げるために今回は細心の注意を払った。それ単体で主張するものを排除していき、出来上がった空間は奥が見通せないために広がりがあり、且つ、奥が見通せないがゆえに閉塞感がある。つまりは「どうとでも解釈できる場所」である。
それに照明の芝君がコンセプトをしっかりと理解した上でライティングしてくれた。正直、コンセンサスを取る時間がしっかりと取れなかったので、理解してもらえているかどうか不安はあった。しかし結果として僕のぼんやりとした想像を具現化したような照明を当ててもらう事ができた。
この舞台は、役者と照明がある上で成立する。それ単体で作品として成立する空間芸術/インスタレーションと違う「芝居の舞台」というのはそうして成立するのではないかと思う。今回を終えてみて、それが自分のなかで明確になった気がする。

何はともあれ、今回は本当に自分一人の力ではつくりきれかったと思う。補佐として力を貸してくれた二人には感謝している。技術云々以上に、自分のイメージが伝わりきるまで話ができるという人間関係は、重要なことだなあとつくづく感じた。
またそれは演出との関係でも同じことが言えた。今回僕自身がつくりながら「これはどうかなあ」と思ったことは小早川に確認しても「これは要らないんじゃないかなあ」という返事だった。会話でのコンセンサスはなくとも、基本的にそこでイメージの共有は図れているのだと思う。恐らく、小早川と僕とは「いいなと思うもの」のイメージがかなり近い。だから、脚本という同じものから現れる雰囲気を共有していれば、おそらくお互いの判断基準を下回るものは出てこないのだろう。

個人的な話になるが、国本氏は僕の思いもつかないような事を思いつく演出家だ。それは僕にとって刺激的だし、その思い付きを具現化するために協力したいと思わせる。
しかし小早川は僕が「こうありたい」と思うことを具現化してくれる演出家だ。それは僕にとってすごくしっくりとくる作品を生み出すし、お互いに同じイメージを踏まえて、同じ完成像に向かっているという安心がある。
ともに今後も作品をつくっていきたい演出家である。


長くなってきたのでこの辺で閉めよう。そう言えば、ここでマクベスについていろいろ書いているのを何人かに読まれているらしい。ああ・・・蜘蛛巣城 [DVD]蜘蛛巣城 [DVD]*1もいいかげん見ないとなあ。

*1:蜘蛛巣城って、漫画版もあるんですね。すごいなあ

蜘蛛巣城 (マンガ黒沢明時代劇 (3))

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