舞台を創るということ

アサヒアートスクエアでグラインダーマンを観劇する。
今回の旅の本題はこれ。
会場前でキュピキュピの江村さんと偶然出会う。
地元にいるはずの人と旅先で会うとなんだか不思議な感覚になる。

雨の中、二人で話ながら開場を待つ。
初日。
お互いクリエイター側に身を置く人間なので、ひとしきり初日の憂鬱さを思い、いま会場内で最後の調整をしているであろう人たちに思いを馳せる。

ひとしきり待って会場内に案内される。
お馴染みのタグチさんの口上とアテンドから作品が始まる。
このヌルッと作品に踏み込んでいく導入は好き。

内容に関してはここで語るべき事ではないように思うので書かない。
でも批評でも感想でもなく思った事は、徹底してセンシティブになるべき箇所と、そうでもない箇所が作品には存在するのだという、当たり前のようで改めての認識ができたということ。
これは江村さんが一緒にいたから余計にそう思ったのかもしれない。

むかし江村さんが言ったこと。
「人間ってね、同じ人間が舞台上でしたミスは許せても、機械がしたミスは許せないんですよ」と。
アナログとデジタル。
だからスタッフのオペレートや舞台装置などに代表される、観客の無意識下にデジタル的に認識されてしまう部分というのは繊細にし過ぎるということはなく、どんな些細な点にでもこだわらないといけない、ということ。

グラインダーマンで言うと、素顔のパフォーマーがアナログだとすれば、トレードマークの黒い箱“ゴーヘッド“を被っているときのパフォーマーはデジタルになり、パフォーマーであるにも関わらず、観客の無意識下には舞台の構成物となってしまう。
だからそこには、徹底したセンシティブが要求されてしまうのだ。

彼らはそこにこだわれる人たちだと思う。
だからいつでも、そこにはこだわってほしいと思った。